橋百選 |
BRIDGES 100 SELECTION |
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▲女 橋 |
▲男 橋 |
江東区亀戸天神社の境内にある大小二つの太鼓橋。向かって右側から、男橋、女橋と呼ばれる。男橋は過去の苦難の山、女橋は未来を表し、これを越えると神の前に出ると神社では説明する。かっては朱塗りの木橋だったが、戦災で焼け落ち、昭和27年に今のコンクリートアーチ橋になった。同社は亀戸天満宮とも呼ばれ、深川八幡宮と共に江戸の大社として有名。菅原道真公が祭神で、寛文二年(1662)将軍家綱のとき、「新開地の鎮守たるべし」と、九州大宰府のものを模してここに造られた。またこの境内は80株の見事なフジの花の名所として知られ、当時の版画(橋百選の表紙)にも描かれている。
徳川家康が江戸幕府を開くにあたり、海岸の州を埋め立てた新市街地と結ぶため、慶長八年(1603)この橋を架けた。東京の町づくりはこの日本橋から始まったといえる。翌年には、ここを起点に東海道など南北五つの街道の里程が定められた。現在の日本橋は明治四十四年(1911)建造の石造りのアーチ橋で、道路元標、擬宝珠(ぎぼし)が設置され、わが国初の重要文化財に指定された。デザインは、和漢洋折衷の代表作といえる。橋名は日本橋川から人々が自然に日本橋と呼ぶようになったもの。また、昭和39年に、真上に高速道路が架かったため、橋の景観が損なわれ、これを撤去、移設の議論が喧しい。ソウルの清渓川では、2005年、時の市長李明博氏の英断で、橋を覆う高速道路を撤去し、汚染により蓋覆されていた河川と景観を復活させた例に倣うべしとの論もあり、近年、この改築案を模索中である。
写真は皇居壕に架かる鋼橋で、この奥に石橋もあり、石橋を西の丸大手橋、鋼橋を西の丸下乗橋という。鋼橋の場所は壕が深く、橋脚を支える桁があって、更にその上に橋を架ける二重構造の架橋技術を用いたのが二重橋の名の起こりだという。江戸時代は木造の太鼓橋(29mx6.5m)であったが、明治21年、ドイツの会社に依頼して独逸製の鋼橋に架け替えた。後に、昭和39年現在の橋に生まれ変わった、宮内庁では石橋を「正門石橋」、鋼橋を「正門鉄橋」と呼んでいるが、両橋を総称して二重橋というのが一般的となっている。
永代橋が初めて幕府により架けられたのは元禄十八年(1698)で、両国橋、新大橋、吾妻橋に続いて隅田川では4番目の橋とされる。当時の木橋は200mx6mで、文化四年(1807),深川富岡八幡の祭礼のとき、見物人がおしかけ、重みで橋が崩れ落ち、千人をこえる死者を出す大惨事を引き起こしている。関係町々の責任者たちは遠島の刑に処せられている。鋼橋になったのは明治30年で、木橋より200m上流である。工期は3年半、200mx14m、経費は83,650円を要した巨大橋で市民の評判になった。その後大正十五年(1926)に架け替えられ、上流の清洲橋の女性的姿に較べて、男性的でみるからにどっしりとした重量感にあふれ、「永代はどしんとおいたように架け」と川柳に詠まれている。
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●聖 橋
コンクリートアーチ橋
橋長92.47m 幅員22m
湯島聖堂とニコライ堂を結ぶことから命名 |
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●八幡橋
ボーストリング(ウィップル形)トラス橋
橋長15.76m 幅員2.0m
国の重要文化財、現存するわが国最古の鋼橋
(1879年製) |
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●新 葛 西 橋
突桁式吊補剛桁橋 橋長280m 幅員15m
世界初の珍しい形式で清洲橋に似た自碇式吊橋 |
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●羽田スカイアーチ
主塔アーチ型並列斜張橋
橋長103.40m 幅員10.25m
土木学会田中賞受賞 |
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●レインボウブリッジ
二層構造吊橋 全長918m 主塔間570m
高速道路,一般道路,歩道,臨海高速鉄道 |
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●音無橋
コンクリート製三連アーチ橋
橋長164尺 車道幅64尺 歩道各10尺
昭和5年建設の古い橋 |
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●多摩川大橋
ゲルバープレートガーダー橋
橋長435.76m 幅員22.8m
日本で最初の水銀灯 |
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(Up&Coming '09 新緑の号掲載) |
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