このコーナーでは、フォーラムエイトの社内報「はちみつ」から、国内各所の旅エッセイと映画に関するふたつのコラムを毎回紹介していきます。

…… タイトル「はちみつ」に込められたメッセージ ……

スイートで栄養満点なコンテンツが詰まった「はちみつ」8 meet you を文字ってこのタイトルにしました。 8(FORUM8)が社員や社外の方と触れ合い、グループ、チームの仕事を理解し、目標達成に向けて日々活動していくことが私達の理念です

今回は、奈良県南部に位置する十津川村をご紹介します。
その土地の秘話や関連人物のエピソードに軸足を置いた話題を提供します。

三つの日本一

奈良盆地にある有名な大和三山の近くに八木駅という近鉄の主要駅があります。この駅前から和歌山県新宮までをつなぐ日本最長の路線バスが走っていることは、知る人ぞ知るです。片道167㎞の距離を6時間40分で走ります。停留所の数がなんと166といいます。そのうちの2つの主要停留所が十津川村にあり、バスは村内を縦走しています。

十津川村は、自慢の3つの日本一を持っているのですが、その1つがこの路線バスの走路であり、2つ目は村の大きさです。面積が琵琶湖のそれを上回る日本最大の村なのです。琵琶湖より少し小さい面積の淡路島に3つの市があることからしてもその大きさが分かろうというものです。

そして3つ目の日本一が、主要バス停の1つにもなっている「谷瀬の吊り橋」です。今でこそ、あちこちの渓谷に架設された観光用の吊り橋に長さ日本一の座を奪われていますが、こと生活道路用に架設された鉄線吊り橋では、橋長297mは現在も日本一の長さを保持しています。

谷瀬の吊り橋

私も、川面上50mほどの高さにあるこの吊り橋を渡りましたが、その日、風が強くてまともには歩けなくて、なかなかスリリングでした。どうも風の通り道のようで、横風を受けるとなかなか歩きづらいものです。幅2mほどの橋面に並べられた薄板の上を地元の郵便配達のバイクは走っていくそうです。もちろん、人数制限もあるのですが、写真に見るように観光バスが着くたびに、制限オーバーの団体さんが橋を渡っているのですが、いいのかいなと思ってしまいます。

人数制限をオーバーして渡る団体観光客

十津川郷士

路線バスのもう一つの主要バス停は、村南端にある十津川温泉です。バスを利用しない場合、車で行くしか交通機関がない所で、じっさい私も自宅のある京都から当温泉地まで車で行ったのですが、全行路の後半は山峡部にある一般道をひたすら走り、ずいぶん長い時間を感じたものです。十津川街道の入り口にあたる五條から数えたトンネルの数が、ふたしかですが36だったと記憶しています。

まわりが山また山の、平野部がほとんどないゆえ米が獲れなかった所です。江戸時代、免租の地であったことを聞くだけでも、どういう所であるか読者はおおよそのイメージがわくでしょう。ここに「十津川郷士」という名字帯刀を許された特異な農民たちがいたことは、ちょっと有名な話です。

古来、十津川郷には「いざ鎌倉」的な志を持つ人が多く、尊攘家たちが五條の代官所を襲った、幕末史でも有名な「天誅組の変」では、山奥の過疎村から何と1千人の戦士を動員したといいます。幕末のある時期からは、京都御所の守衛役を買って出て、洛中に十津川郷士の駐屯所のようなものも用意していたといいます。余談となりますが、ここで思い出すのが、映画『ダ・ヴィンチ・コード』の続編ともいえるトム・ハンクス主演の『天使と悪魔』です。この映画の中で初めて知ったのですが、バチカン市国の警備を担当していたのがスイスの衛兵だったことです。洋の東西で似たことがあるものだと感心した次第です。

閑話休題。そんなことで、十津川郷士は勤皇の志士たちの間には信用を得ていました。京都・近江屋に坂本龍馬が潜んでいることを察知した刺客が、近江屋を訪ねたさい、相手を安心させるため最初に名乗ったのが「十津川郷の者」でした。竜馬暗殺の悲劇は、このひと言で決まったようなものでした。

悲劇はさらに続きます。十津川郷士の中に中井庄五郎という、居合が得意という若者がいました。竜馬に結構かわいがられていたようです。この人、同志たちと語らい-このメンバーの中には、後の外務大臣・陸奥宗光もいました-復讐を図ったのはいいのですが、復讐相手を間違ってしまい、その相手が悪かった。新選組相手では、無残にも返り討ちに遭ってしまいました。時に21歳の死でした。

大災害の定理

一昨年、昨年と続いた平成最悪の大水害の影に隠れてしまったかもしれませんが、平成23年の台風12号による十津川村の災害も記憶に新しいです。死者6名、行方不明者6名という被害でした。私が訪れた1年後でも、土砂崩れで岩肌が露出した山腹の生々しい姿が今も目に焼き付いています。ところが、十津川村の災害史では、今から130年前にこの被害を大きく上まわる大水害の歴史があったのです。

明治22年(1889)8月、十津川郷では記録的な降雨に遭い、土砂崩れのためいたるところの水路がせき止められて40ほどの湖ができたといいます。この過疎村一村での死者がじつに168人、流失家屋411戸という大災害を被ったのです。村民の合議の末、再起不能という結論となり、2,600人の村民が村を捨てて新天地の北海道へ移住したというすさまじい歴史がありました。北海道の地図を広げると、札幌市の北にある滝川市の西側の位置に、新十津川町というのがあります。この時の移住でできた町です。少人数の北海道への移住はそれまでも何度もありましたが、2千人を超える大移住は前代未聞のことだったようです。

ところで、平成23年は、9月に起きた十津川郷の土石流災害といい、3月に起きた東北大地震による津波災害といい、ともに明治20年代に起きた大災害の再来といえます。じつは明治20年代というのは、日本の災害史の中でも特筆すべき時期になっているのです。あらためて列記してみますと、次のような歴史があります。

■明治21年(1888)
会津磐梯山の大爆発 死者461名
■明治22年(1889)
奈良県十津川郷の大水害 死者168名
■明治24年(1891)
濃尾大地震(M8・4) 死者7,466名
■明治29年(1896)
三陸大津波(M7・6) 死者27,000名

すなわち、平成23年は、明治20年代の大災害のうち2つが再来したことになります。「大災害は同じ場所で繰り返す」という「大災害の定理」とでも呼ぶべき定理が地球物理学にはあるかのような地球の酷い活動ですね。

オオカミはまだいるか?

現在、日本ではオオカミは絶滅しているというのが定説です。最後の1匹が捕まったのが、十津川村の北側にある吉野の地であったことをご存じでしょうか。日露戦争のあった明治37年(1904)頃には、奈良県にはオオカミがいたそうです。県内では、戦前からの存在が唯一の湯治場である十津川温泉の地では、「今でもオオカミは生きとる」という猟師がいると聞きました。熊野古道に観光に行かれる方は、十津川温泉にも寄られて露天風呂に浸かりながらオオカミの遠吠えを期待するというのもいかがなものでしょうか。

十津川温泉での川面景色

(Up&Coming '20 春の号掲載)