はじめに    福田知弘氏による「都市と建築のブログ」の好評連載の第61回。毎回、福田氏がユーモアを交えて紹介する都市や建築。今回は木曽路の3Dデジタルシティ・モデリングにフォーラムエイトVRサポートグループのスタッフがチャレンジします。どうぞお楽しみください。
Vol.61

木曽谷:エメラルドグリーン
  大阪大学大学院准教授 福田 知弘
  プロフィール    1971年兵庫県加古川市生まれ。大阪大学准教授,博士(工学)。環境設計情報学が専門。CAADRIA(Computer Aided Architectural Design Research In Asia)国際学会 フェロー、NPO法人もうひとつの旅クラブ 理事など。著書に、都市と建築のブログ 総覧(単著)、VRプレゼンテーションと新しい街づくり(共著)、夢のVR世紀(監修)など。ふくだぶろーぐは、http://fukudablog.hatenablog.com/

はじめに

これまで、フォーラムエイト・ラリージャパン2022、そして、同じく2023の舞台である岐阜県恵那市、中津川市を巡ってきた。

木曽川によって作り出されたこの地域は木曽谷と呼ばれ、中央アルプスを挟んで併行する伊那谷と比べると、木曽谷は狭く見える。そのため、航空写真からでも谷の存在がわかりにくいほどである。

江戸から京都に向かう街道、木曽路には、江戸時代に11の宿場町が設けられた。その中には、贄川宿、奈良井宿、藪原宿、宮ノ越宿、福島宿、上松宿、須原宿、野尻宿、三留野宿、妻籠宿、馬籠宿がある。今回は、前回ご紹介した馬籠宿から、中山道沿いをさらに北上していこう。


妻籠宿

早朝、中山道の難所であった馬籠峠を抜けて、中山道42番目の宿場町・妻籠(つまご)へ。

こは、日本で最初に宿場保存事業が行われた地区。1955年(昭和30年)代にはじまる高度経済成長の波を受ける中、「保存することが開発である」との理念のもと、町なみの破壊を防ぐために、土地や建物を「壊さず、売らず、借さず」という三つの基本事項が申し合わされた。

この、住民の自発的な意志と強固な団結が原動力となり、1976年(昭和51年)、国が重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)にはじめて指定した7つの地区のうちのひとつとなった。指定面積は1245 ha(東西約3.8 km、南北約5.5 km)と広大であり、この面積は現在に至るまでに指定された、全国に126地区ある重伝建地区の中でも最大であり、総面積の30%強を占めている。これは、伝統的建造物群と一体をなす広範囲な歴史風致を保存しているためである。

筆者自身は2度目の訪問であり、前回は観光客で賑わっていた(図1)。一方、今回は早朝ということもあってか、妻籠宿の町なみはとても静かであった(図2)。水のせせらぎと虫の音が響き渡っていた。

江戸時代の面影がよく残されている。

1 妻籠宿(2009年7月) 2 妻籠宿(2022年8月)

奈良井宿

妻籠から木曽川沿いの国道19号線を60kmほど進む。道中、左手に木曽川と山並み、右手に中央アルプスが壁のように迫っており、木曽谷はほんとうに急峻であると感じさせてくれる。

鳥居峠をくぐるトンネルを抜けると、長野県塩尻市にある奈良井宿(ならいじゅく)に着いた。鳥居峠は、中山道の難所であるほか、我が国の大河である木曽川水系と信濃川水系を分ける中央分水嶺である。木曽川は太平洋に流れこんでいるが、奈良井宿のそばを流れる奈良井川は信濃川水系であり、日本海へ流れこむ。

奈良井宿の標高は940mであり、関西でいえば六甲山の山頂(931m)とほぼ同じ。妻籠(標高430m)からは510m登ったことになる。

奈良井宿は、中山道の34番目、約1kmも続く日本最長の宿場である。江戸時代には旅人や物資の交通の要所として栄え、奈良井宿周辺には多くの旅籠や商家が存在した。中村邸の移築問題を契機として町並み保存運動を経て、1978年(昭和53年)に国から重伝建に選定された。

街道沿いは、切妻造(きりづまづくり)で平入(ひらいり)の町家が並んでいる。課税ルールの関係上、狭い間口と、奥に深いつくりは他の集落でも見られることであるが、奈良井宿の町なみの特徴としては、建物の2階の屋根の出が1階よりもかなり深いこと。これは、出梁造り(だしばりづくり)と呼ばれる(図3)。また、思ったより道幅が広く、ゆったりとしている。屋根の材は、元々は板葺きの石置きであったが、今は鉄板が使われている。

3 奈良井宿

奈良井宿辺りまで来ると、道路沿いには「上高地」の案内が見られるようになる。このまま、上高地を目指そうかと、ついつい心が揺さぶられそうになったが(笑)、奈良井宿を北の端っことして、今度は木曽谷を南進していこう。


奈良井ダム

奈良井宿から奈良井川を4 kmほど上流に進むと、奈良井ダムである。

これは、治水、利水、管理用発電を目的とし、1983年(昭和58年)に完成した多目的ダム。ダムの型式(ダムの形状や材料に関すること)は、中央コア型ロックフィルダムであり、関西でいえば完成間近の安威川ダム(大阪府茨木市)と同じ。

4 奈良井ダムの余水吐 
ダムの天端を歩いてみると、余剰の水を放流するために設けられた余水吐(よすいばき)の存在が目に飛び込んできた(図4)。これほどまでに、なぜだろう、と考えてみると、ダムの主な構造物であるロックフィルの法面はそもそも、岩石や土砂が積み上げられて造られているのだが、今はみどりが生い茂り、周囲にある山の樹木と一体化しているからであろう(図5)。いわば、アースダムのようにも思えるのだが、いざという時に対応できれば、景観的にはこれで良いのかもしれない。

ダムの概要や歴史などを紹介したダムカードをゲット。

5 奈良井ダムの法面

開田高原

開田高原(かいだこうげん)は木曽馬(きそうま)の里である(図6)。標高1000 mにあり、真夏でも涼しい。

日本にはかつて、ずんぐりむっくりの在来馬(ざいらいば)が各地にいたが、木曽馬は現在、本州に残る唯一の在来馬である。木曽馬は、小型でおとなしい性格であり、中世や近代では武士などの馬として使用されるほどであったが、一時、絶滅寸前となった。開田の人びとが保護に努めた。現在は、本州に160頭ほどが生息している。

訪問時は、ソバ畑一面に、白い花が咲いていた(図7)。

背景に見える御嶽山にもう少し近づいてみよう。

6 開田高原 7 ソバ畑

御嶽山

久蔵峠へ。「信州サンセットポイント百選」であるこのスポットからは、木曽の御嶽さんが一望できる。しばらく眺めていると、雲が切れてきて、御嶽山が姿を現してきた(図8)。

8 久蔵峠から御嶽山

御嶽山は、長野県と岐阜県にまたがる標高3067mの活火山。山頂は最高峰の剣が峰(3067m)、継母岳(2867 m)、摩利支天山(2959m)、継子岳(2859m)の頂と、複数の池などからなっている。日本の独立峰としては、富士山に次いで2番目に高い。また、3000 mを超える山としては最も西にある。

眺めている久蔵峠の標高が1280mとそれなりの高さであることも関係しているのだろうが、御嶽山は、裾野が広く、山全体が平べったい大きな台形をしているので、3000mを超えている山だとはなかなか思えない。

9 プロペラ機から御嶽山(2021 年4 月)
2021年4月に大阪から秋田へプロペラ機で向かった折、左手に御嶽山を眺めていたことを思い出した(図9)。木曽八景のひとつ、「御嶽の暮雪(おんたけのぼせつ)」を上空から眺めた景色である。


木曽福島

再び、中山道まで戻ってきた。

木曽福島は中山道37番目の宿場町と関所があった地。福島関所は、東海道の箱根関所と新居関所、中山道の碓氷関所と並んで、天下の四大関所のひとつに数えられた。木曽路を通る旅人や物品に対する税関や検問が行われていた。

木曽福島は、木曽川の断崖と山に挟まれたはさまれた平地にあり、まさに天然の要害。

上の段は、木曽川を望む小高い場所に位置しており、古い町なみが残る(図10)。敵の進入を阻むために道を「鍵の手」に折り曲げ、なまこ壁、水場が設けられている(図11)。

10 木曽福島・上の段 11 水場

木曽の桟

「橋」と聞くと、対岸に向けて架けられた構造物を想像する。一方、木曽の桟(かけはし)とは、木曽川の絶壁に沿って数百mにわたって、藤づるで編んだ桟橋が架けられていたものである。現在は国道19号線が新しいルートで通っており、この旧道は「木曽街道」として整備されている。木曽街道の下の石積みに街道の面影をとどめている(図12)。

「木曽の桟、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」と、木曽の桟は、中山道三大難所のひとつに数えられた。このほか、太田の渡しは木曽川を渡る渡船のことで、かつては交通の要所であった。碓氷峠は、木曽街道の中でも最も高い峠であり、荷物の多い旅人たちにとっては大変な難所であった。

「掛橋朝霞(かけはしのあさぎり)」とは、桟橋を渡るときに見られる美しい光景で、朝霞に照らされた風景が幻想的であることから、木曽八景のひとつに選ばれた。


寝覚の床

寝覚の床(ねざめのとこ)もまた、木曽八景のひとつに数えられる。

現地を訪ねる前に、近くの食堂で昼食。メニューの正確な名前は忘れてしまったが「冷やし生そば」を注文した(図13)。麺は木曽谷らしく和蕎麦であるが、タレに浸かった冷やし蕎麦であること、そして、蕎麦の上にはキュウリ、ハム、ノリ、卵、ワカメが載せられており、盛り付け方を含めて、中華風冷麺を意識しているようだ(笑)。但し、皿の脇には、黄色いカラシではなく、緑色のワサビが付いていた。さっぱりと、そして、色々な栄養分も摂れて何より。

臨川寺から入場して坂道を少し下ると寝覚の床が一望できる(図14)。JR中央西線の線路をくぐって、木曽川まで下りていく。

12 木曽の桟
13 冷やし生そば

寝覚の床に降り立つと、巨大な箱を並べたような不思議な造形をもたらしていた。ひとつひとつの岩はとても大きく、岩をひとつ登っては下り、また次に挑戦する、という繰り返しで川面に近づく。自然にせき止められた木曽川は、流れが止まっているかのように静かであった。水の色はエメラルドグリーンである(図15)。川底から最も高い岩まで、高さ20 mもあるそうだ。

14 寝覚の床俯瞰
15 寝覚の床

よく似た景勝地の事例としては、関西では加古川中流にある闘龍灘が知られており、「播州寝覚」の碑も置かれているが、規模は違っていた(図16)。

16 闘龍灘

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(Up&Coming '23 春の号掲載)
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