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大阪大学大学院准教授 福田 知弘 | ||||||
プロフィール 1971年兵庫県加古川市生まれ。大阪大学准教授,博士(工学)。環境設計情報学が専門。CAADRIA(Computer Aided Architectural Design Research In Asia)国際学会 フェロー、日本建築学会 情報システム技術委員会 幹事、NPO法人もうひとつの旅クラブ 理事など。著書に、都市と建築のブログ 総覧(単著)、VRプレゼンテーションと新しい街づくり(共著)、夢のVR世紀(監修)など。ふくだぶろーぐは、http://fukudablog.hatenablog.com/ | ||||||
恵那へ
明知鉄道に乗って恵那駅で明知鉄道に乗り換える。恵那市南部の明智駅まで続く、25kmのローカル単線である。今年は、開業88周年ということで1日フリー切符が880円で売られていた。硬い紙を使った昔ながらの硬券である。駅員さんに改札鋏できっぷを切ってもらうと、鋏こん(きょうこん)は、半円形であった(図4)。
岩村の町なみ岩村は、美濃東部の政治、文化、経済の要衝として古くから栄えた町である。 岩村駅を下りると、本通りと呼ばれる東西1.4kmの道路が岩村城跡のある山に向かって延びており、その両側には江戸時代からの町家が並んでいる。この商家町は、重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に指定されている(図7)。
次に訪問する岩村城跡は「女城主」として有名。岩村の町では、「女城主の里」に因んで家の軒先に青い暖簾が揺れており、その家の女性の名前が記されている。また、家々の軒先には、儒学者・佐藤一斎の「言志四録」を刻んだ木板が掛けられている(図10)。
岩村城跡に登るいよいよ、岩村城跡へ。江戸諸藩の府城の中で最も高い所に築かれ、大和の高取城(奈良県)、備中の松山城(岡山県)と並んで日本三大山城のひとつに数えられる。標高は717m、本町通りから180mほど登ることになる。日本百名城にも選ばれている。 案内地図にもしっかりと書かれてあるのだが、登城口からは急な登り坂の石畳が延々と続く。それでも、自然たっぷりの山道は気持ちがいい。石に苔がむした自然の盆栽が点々としている。かつては空堀に架けられていたという畳橋を超えると、本丸はもうすぐである(図11)。
本丸の虎口では、石垣の一階ずつに犬走りが設けられた六段積みの石垣に出会った。修理や防御を想定した特徴的な形態をした六段壁であるが、棚田のようでもある(図12)。登りきった本丸はすっきりと整備され、曇っていたものの、良い見晴らしであった。
明智
ヘボ明知城跡は、張り出した尾根や谷などの自然の地形を巧みに利用した山城。岩村城のような石垣は見当たらず、自然の山を要塞化したようなつくり。落城してからも原型のまま残されているのは、珍しいそうだ。登城坂は細い自然の山道であり、時おり現れる木の根っこが前日の雨で光っているからか、蛇のようである(図16)。 山を下りてから山すそを歩いていくと、明智光秀の母・お牧の方の墓所にたどり着く。道中、のんびりした風景が続いた。そんな中で、何とアオダイショウに出会ってしまったのだが、お互いにビックリしたようで、慌てて川に逃げ込んでしまった(図17)。
坂折棚田翌日は恵那市街から車に乗り、木曽川支流の中野方川沿いを進み、笠置山の北西にある中野方町の坂折地区へ向かう。 中野方川沿いは狭い谷筋であるが、道中には、棚田が何ヶ所も作られていた。棚田は「みどりのダム」とも呼ばれ、そこで暮らす人々と自然が共生する場となっている。何より、生活を感じさせてくれる風景だ。 坂折棚田は、狭い谷筋から一定開けた斜面地に作られている(図18)。約400年前から作られ、明治初期にはほぼ現在の姿になったそうだ。谷の中央を流れる坂折川を境として、棚田の向く方向が変わっており、全体として、谷に向かって美しい扇形のカーブを描いている。標高410mから610mの斜面地に造られた棚田の枚数は360枚、面積は14.2haもある。ほとんどが石積みの棚田となっており、斜面地にできるだけ多くの田んぼが作られている。日本の棚田百選にも選ばれた。
400年前から作られ、明治初期にはほぼ現在の姿になったそうだ。谷の中央を流れる坂折川を境として、棚田の向く方向が変わっており、全体として、谷に向かって美しい扇形のカーブを描いている。標高410mから610mの斜面地に造られた棚田の枚数は360枚、面積は14.2haもある。ほとんどが石積みの棚田となっており、斜面地にできるだけ多くの田んぼが作られている。日本の棚田百選にも選ばれた。 さらに詳しく眺めると、法面の下部が石積みで、上部は土羽となっているところもある。人の背丈より大きく、実りつつある稲穂が石垣の向こうに空を背景としてなびいていた(図19)。
笠置峡坂折棚田から山道を抜けて、木曽川まで戻ってきた。ここは、笠置峡と呼ばれている。 木曽川は長さ229km、日本で7番目の長さを誇り、暴れ川としても有名で、川の表情はところどころで大きく変わる。だが、笠置峡に架けられた赤いトラス橋から眺めていると、どちらに水が流れているのか、というくらい静かであった(図20)。
地図で、木曽川本流を辿ってみると、約7km上流には大井ダム、約3km下流には笠置ダムがあった。笠置峡は笠置ダムのダム湖のような位置づけになっているのだ。 大井ダム笠置峡から木曽川を遡って大井ダムを目指す。 大井ダムは、1924年(大正13年)に完成した、わが国で最初となる発電用ダムである。ダム水路式と呼ばれる、ダム式と水路式を組み合わせた水力発電の方法を採用しており、ダムで貯めた水を適当な落差が得られるところまで下流に導いて発電している。 見学者用の駐車場からダム本体まで下りる通路は、自然化が進んでいた。ダムの堤を反対側まで渡るための通路は狭いながらも用意されており、見学者にはうれしい。堤から下流側を見ると、荒々しい岩の塊の真ん中を木曽川が流れている(図21)。反対に、上流側は、ダム湖であり、恵那の観光地・恵那峡につながっている。
大井ダム付近は、右岸が中津川市、左岸側が恵那市となっている。 |
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(Up&Coming '22 秋の号掲載) |
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