はじめに    福田知弘氏による「都市と建築のブログ」の好評連載の第59回。毎回、福田氏がユーモアを交えて紹介する都市や建築。今回は恵那の3Dデジタルシティ・モデリングにフォーラムエイトVRサポートグループのスタッフがチャレンジします。どうぞお楽しみください。
Vol.59

恵那:棚田
  大阪大学大学院准教授 福田 知弘
  プロフィール    1971年兵庫県加古川市生まれ。大阪大学准教授,博士(工学)。環境設計情報学が専門。CAADRIA(Computer Aided Architectural Design Research In Asia)国際学会 フェロー、日本建築学会 情報システム技術委員会 幹事、NPO法人もうひとつの旅クラブ 理事など。著書に、都市と建築のブログ 総覧(単著)、VRプレゼンテーションと新しい街づくり(共著)、夢のVR世紀(監修)など。ふくだぶろーぐは、http://fukudablog.hatenablog.com/





恵那へ

フォーラムエイト・ラリージャパン2022がいよいよ近づいてきた。開催市町のひとつである岐阜県恵那市へ。本市は、前回号で紹介した愛知県豊田市と隣接している。日本百名山・恵那山(2190m)は恵那市街からもよく見える(図1)。

江戸時代の主要街道のひとつである中山道。恵那は、46番目の宿場町・大井宿として栄えた。丁度、恵那を訪れる1週間前、中山道の起点である東京・日本橋と1番目の宿場町・板橋を訪問していた(図2)。恵那から日本橋までは347kmもある。街道だからつながっているのは当然だが、本当にたどり着けるのかという気もする。昔の街道には、敵の侵入を防ぐために「升形」と呼ばれる直角に曲がったところがあるが、大井宿では6ヶ所も現存している(図3)。中山道は、市街地は別にしても、大きな開発がなされていないところも多いため、中山道を歩いて昔の旅人に出会ったとしても、大きな違和感を感じないのかもしれない。


1 恵那山
2 東京・日本橋と板橋 3 中山道大井宿

明知鉄道に乗って

恵那駅で明知鉄道に乗り換える。恵那市南部の明智駅まで続く、25kmのローカル単線である。今年は、開業88周年ということで1日フリー切符が880円で売られていた。硬い紙を使った昔ながらの硬券である。駅員さんに改札鋏できっぷを切ってもらうと、鋏こん(きょうこん)は、半円形であった(図4)。

4 開業88周年を迎えた明知鉄道

恵那駅を出発すると、1両編成のディーゼルカーは右に大きくカーブしながら、坂を登っていく。「カタン、カタン」と音を立て、林のトンネルに入った(図5)。

まずは、6つ目の岩村駅に向かっているのだが、途中の駅にはそれぞれの物語が用意されている。2つ目の飯沼駅は、「日本一の急勾配の駅」。構内の勾配が33パーミル(1000m当たり、33m上がる計算)であり、駅に停車中も確かに傾斜している。4つ目の飯羽間駅は、農村景観日本一に選ばれた岩村町富田地区まで3kmほどと近い。5つ目の極楽駅は、かつてこの地域に存在したと言われるお寺の名前を駅名にしており、ユニークな風貌(図6)。他には、駅前に温泉がある花白温泉駅、田んぼアートが有名な山岡駅など。

列車は1時間以上に1本ある程度であり、各駅で下車して駅周辺の見どころをウロウロして、次の列車にまた乗っていくならば、恵那を始発に出たとしても終点の明智に着くのは日が暮れてしまう。スローな旅をどこまで目指そうか。

5 林のトンネル 6 極楽駅

岩村の町なみ

岩村は、美濃東部の政治、文化、経済の要衝として古くから栄えた町である。

岩村駅を下りると、本通りと呼ばれる東西1.4kmの道路が岩村城跡のある山に向かって延びており、その両側には江戸時代からの町家が並んでいる。この商家町は、重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に指定されている(図7)。

7 岩村の町なみ

美濃や信州に来ると、五平餅が食べたくなる。粒が残る程度に搗いたうるち米飯を平べったい楕円形の「わらじ型」にしながら串に練りつけて焼いた姿がお馴染みである。一方、岩村で立ち寄ったお店は「団子型」であった。注文すると焼きはじめてくれ、香ばしい匂いが広がる。「わらじ型」を期待する客がやはり多いのか、「当店の五平モチは団子型です」「団子五平餅」と書かれてあった。団子状のものをみるとつい、みたらし団子や鶏つくねを想像してしまうのだが、やはり美味しい五平餅だった(図8)。

山里に来ると、新鮮な野菜が置かれた無人販売所をよく見かける。無人販売所の脇には、商品の代金を入れる箱が置かれていることが多い。本町通りで見かけた無人販売所では、家の中から持ち出したであろう椅子が軒先に並べられ、その上にトマトの袋が置かれてあった。そして、代金を入れる装置は、細長い樹脂製の建材が家の扉に挟みこまれてあり、代金を入れると家の中に届くように設計されていた。確実な現金収受法である(図9)。

8 団子型の五平餅

次に訪問する岩村城跡は「女城主」として有名。岩村の町では、「女城主の里」に因んで家の軒先に青い暖簾が揺れており、その家の女性の名前が記されている。また、家々の軒先には、儒学者・佐藤一斎の「言志四録」を刻んだ木板が掛けられている(図10)。

9 無人販売所
10 青い暖簾と言志四録

岩村城跡に登る

いよいよ、岩村城跡へ。江戸諸藩の府城の中で最も高い所に築かれ、大和の高取城(奈良県)、備中の松山城(岡山県)と並んで日本三大山城のひとつに数えられる。標高は717m、本町通りから180mほど登ることになる。日本百名城にも選ばれている。

案内地図にもしっかりと書かれてあるのだが、登城口からは急な登り坂の石畳が延々と続く。それでも、自然たっぷりの山道は気持ちがいい。石に苔がむした自然の盆栽が点々としている。かつては空堀に架けられていたという畳橋を超えると、本丸はもうすぐである(図11)。

11 登城坂

本丸の虎口では、石垣の一階ずつに犬走りが設けられた六段積みの石垣に出会った。修理や防御を想定した特徴的な形態をした六段壁であるが、棚田のようでもある(図12)。登りきった本丸はすっきりと整備され、曇っていたものの、良い見晴らしであった。

12 六段壁

駅前で電車を待つ間、カツ丼を注文する。思いのほか、玉ねぎがのったソースカツ丼が出てきたが、絶品であった(図13)。岩村を訪問したのが、お盆休みが明けて2学期が始まった金曜だからか、または、観光客が訪れる時間帯としては少し早かったのか、とても静かであった。
13 カツ丼

明智

14 大正路地

明知鉄道が入線してきた。岩村駅では、上りと下りの列車がすれ違う。食堂車が連結された大正ロマン1号に乗車。終点の明智駅は、戦国武将・明智光秀が生まれたという言い伝えが残る。

明智の町は、「日本大正村」と呼ばれている。といっても、大正ブームに乗っかって造られたテーマパークではなく、かつて蚕糸を地場産業としていた大正時代の佇まいを人々が守り伝えてきたのだ(図14)。

何と、大正村の町なかを東海自然歩道が通っていた(図15)。東海自然歩道は、大阪、京都、奈良、滋賀、三重、岐阜、愛知、静岡、山梨、神奈川を経て、東京・高尾の「明治の森高尾国定公園」まで続く、11都府県約90市町村にまたがる長さ1,697kmの自然歩道である。西側の起点である「明治の森箕面国定公園」は、筆者が日ごろ暮らしている大阪大学吹田キャンパスにほど近く、つながりを感じた次第である。因みに、「明治の森」と名付けられているのは、1968年(昭和43年)に実施された「明治百年記念事業」の一環で整備されたためである。

15 大正村役場(東海自然歩道付近)

ヘボ

明知城跡は、張り出した尾根や谷などの自然の地形を巧みに利用した山城。岩村城のような石垣は見当たらず、自然の山を要塞化したようなつくり。落城してからも原型のまま残されているのは、珍しいそうだ。登城坂は細い自然の山道であり、時おり現れる木の根っこが前日の雨で光っているからか、蛇のようである(図16)。

山を下りてから山すそを歩いていくと、明智光秀の母・お牧の方の墓所にたどり着く。道中、のんびりした風景が続いた。そんな中で、何とアオダイショウに出会ってしまったのだが、お互いにビックリしたようで、慌てて川に逃げ込んでしまった(図17)。

16 明知城跡の登城坂 17 お牧の方墓所

坂折棚田

翌日は恵那市街から車に乗り、木曽川支流の中野方川沿いを進み、笠置山の北西にある中野方町の坂折地区へ向かう。

中野方川沿いは狭い谷筋であるが、道中には、棚田が何ヶ所も作られていた。棚田は「みどりのダム」とも呼ばれ、そこで暮らす人々と自然が共生する場となっている。何より、生活を感じさせてくれる風景だ。

坂折棚田は、狭い谷筋から一定開けた斜面地に作られている(図18)。約400年前から作られ、明治初期にはほぼ現在の姿になったそうだ。谷の中央を流れる坂折川を境として、棚田の向く方向が変わっており、全体として、谷に向かって美しい扇形のカーブを描いている。標高410mから610mの斜面地に造られた棚田の枚数は360枚、面積は14.2haもある。ほとんどが石積みの棚田となっており、斜面地にできるだけ多くの田んぼが作られている。日本の棚田百選にも選ばれた。

18 坂折棚田

400年前から作られ、明治初期にはほぼ現在の姿になったそうだ。谷の中央を流れる坂折川を境として、棚田の向く方向が変わっており、全体として、谷に向かって美しい扇形のカーブを描いている。標高410mから610mの斜面地に造られた棚田の枚数は360枚、面積は14.2haもある。ほとんどが石積みの棚田となっており、斜面地にできるだけ多くの田んぼが作られている。日本の棚田百選にも選ばれた。

さらに詳しく眺めると、法面の下部が石積みで、上部は土羽となっているところもある。人の背丈より大きく、実りつつある稲穂が石垣の向こうに空を背景としてなびいていた(図19)。

19 坂折棚田スナップ

笠置峡

坂折棚田から山道を抜けて、木曽川まで戻ってきた。ここは、笠置峡と呼ばれている。

木曽川は長さ229km、日本で7番目の長さを誇り、暴れ川としても有名で、川の表情はところどころで大きく変わる。だが、笠置峡に架けられた赤いトラス橋から眺めていると、どちらに水が流れているのか、というくらい静かであった(図20)。

20 笠置峡

地図で、木曽川本流を辿ってみると、約7km上流には大井ダム、約3km下流には笠置ダムがあった。笠置峡は笠置ダムのダム湖のような位置づけになっているのだ。


大井ダム

笠置峡から木曽川を遡って大井ダムを目指す。

大井ダムは、1924年(大正13年)に完成した、わが国で最初となる発電用ダムである。ダム水路式と呼ばれる、ダム式と水路式を組み合わせた水力発電の方法を採用しており、ダムで貯めた水を適当な落差が得られるところまで下流に導いて発電している。

見学者用の駐車場からダム本体まで下りる通路は、自然化が進んでいた。ダムの堤を反対側まで渡るための通路は狭いながらも用意されており、見学者にはうれしい。堤から下流側を見ると、荒々しい岩の塊の真ん中を木曽川が流れている(図21)。反対に、上流側は、ダム湖であり、恵那の観光地・恵那峡につながっている。

 
21 大井ダム

大井ダム付近は、右岸が中津川市、左岸側が恵那市となっている。
車に戻り、中津川市を巡る。


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(Up&Coming '22 秋の号掲載)
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